グ ア ム レ ー ス の 復 活

                                              高田 尚之
                                       


 グアムレースの歴史、そして海難事故
 厳冬の日本を出て、日増しに暖かさを実感できるレース。シーワージネスを確かめながら目に見えない相手との戦い。そして、自艇との戦い。グアムレースは日本の外洋セーラーにとっては格好の目標なのであった。1983年12月30日、前年の試走を経て第1回グアムレースのスタートが切られた。出場艇は6艇、31日の最大40ノットを越える時化を乗り越え、全艇が1330マイルを無事に走り切り、ここにグアムレースの歴史がはじまった。
長距離レースはドラマそのものだ。艇を外から描いても作品となり、乗組員各々にも、胸深く刻まれる思い出として、それぞれのドラマがつくられる。
 生死を分ける"本物の"ドラマが起こったのは1991年、第9回レースであった。<マリンマリン>と<タカ>が、NORCの歴史上最大の海難事故にかかわった。両艇で都合14名の人命が失われた。
<マリンマリン>は、八丈島を越え、青ヶ島沖で風下のランナーが航法機器のアンテナポールにからんだ。それをはずそうとしたクルーが落水、長時間捜索するも落水者は発見できずに風下に流され、緊急避難のチャンスを逃した。その後プロペラシャフトにロープをからませ、巡視船に曳航を要請するが、荒天のため曳航策の導策を切断する。巡視船に人のみ移乗を希望するが荒天のためできなかった。そして、ヒーブツーの最中にキールが脱落し沈没。結果計8名が死亡した。
<タカ>は、鳥島を越えてからメインセールが破損、ジブだけでセーリングするが大波に巻き込まれて転覆する。180度裏返して安定するが、このときオーナー・ヘルムスマンが死亡してしまう。キャビンは浸水し、復元したときには浸水がはなはだしく排水が不能な状態だった。
 そして、キャビン出入り口の差し板が流失し、艇上でラフトを展張させることになる。展張ラフト積み込の懐中電灯とナイフを探す際に、ラフトが風に煽られて転覆。そのとき非常食料をほとんど流失してしまう。そして残ったクルーは漂流する。イーパーブも作動しなかった。2度にわたって捜索機を仰ぐが発見されず、結果計6名が死亡した。

 海上と陸上の論理の食い違い
 これらの事故は「構造上の問題点から奮起してしまった2次的行動をふくめて、いずれもヒューマンファクターの影響が大きく、残念ながら不可避の事故であったとは言い難い(事故報告書より)」にもかかわらず、報道メディアの格好の標的となった。正当な反論もないまま"庶民の正義"づらをした報道メディアによる冷たい批判で世の中にオフショアレースに対する誤解を定着させてしまった。報道メディアが「海に出て行く責任」を国際原則に反する方向で解説するのを聞いて、私たちは胸の中に深く傷を負った。
 ドブに落ちても道路管理者が悪いと他人に責任を転嫁する風潮のなかで、ほかからの援助が容易に得られない隔絶された海上では、自分を守るのは自分であるというセオリーがある。それは歴史で育まれた航海の大原則であり、「自己責任」こそ人間が海とかかわり、陸を離れて乗り出すときの最も必要な心構えであることを報道メディアは認めようとはしなかった。
 同時に私たちは「外洋ヨットは不沈・不転である」という常識が破られたことによりべつの強い衝撃もうけた。その後、これは事故報告書により「負の復元力」として解明が加えられ、その対処法も解説され、ひとまずの安寧をとりもどしたのだが・・・・。
 さらに私たちはもっと大きな衝撃をうくた。<タカ>のクルーの遺族から国・オーナー・NORCの3者を相手に総額1億3000万円の損害賠償訴訟がおこされたのである。そして、ハタと気がついた。乗組員とその家族は違う考えを持つことがあるのだということを。原告団の中には実質的に<タカ>のスキッパーであり、外洋ヨット界ではベテランのヨットマンの遺族も含まれていた。海に出て行くものの責任や安全教育は、ただ単に艇に乗りこんで行く人々に理解してもらうだけではだめなのだ。家族や世間にも分かってもらわねばならないのだ。
 こうして心深く傷ついた長距離レースのオーガナイザーたちは一様に裁判の経過を見守るとの判断もあって、グアムレースの復活を正面きっていいだすことはなかった。裁判は長引いた。法廷では重箱のすみをつつく非難が繰り返され、"陸上の論理"を海上にまで適用するかのような議論が展開された。
 一方出場艇のサイドでも耐航性の低い軽いレース艇でのインショアレースが圧倒的となり安全対策への重圧ともかさなり日本の外洋ヨット界は長距離レースへ二の足を踏むという状態になっていった。

 グアムレースの灯を消してはならない
 かって関東のセーラーたちは、艇がレースで勝ち目があろうとなかろうが関係なしに、レースという機会を利用して艇を整備した。初島から大島へ、大島から三宅島へ、三宅島から八丈島へと足をのばし、自らと艇のシーワージネス高めていった。やがて八丈島から沖縄へと飛躍し、小笠原、グアムへと南進してゆきながら自分たちと自分たちの艇に課題を与えつづけていった。
こうしてセーラーたちは海の喜びと怖さを身に覚え込ませて育っていったのだ。先輩たちが切り開いてきたこうした伝統をすたれさせてはならなかった。NORC最長距離レースのグアムレース灯を消してはならなかった。グアムレースは外洋セーラーにとっては格好な目標なのである。
心深く傷ついた長距離レースのオーガナイザーたちの中でも、油壷ベイヨットクラブ(ABYC)の仲間たちは立ち直りがはやかった。もともとグアムレースは実質的にABYCが先頭になって実施したこともあって、ABYCの面々にはグアムレースに対する思い入れもひとしおだった。
裁判で「厳冬期のあんな時期にレースをするのは無謀だ」との弁護団の発言に、「いや、グアムレースはあの時期が一番安全なのだ。たくさんあの時期に普通の艇が走って安全さを実証しよう」と燃え上がり、仲間を集り、1995年に2艇、1996年に3艇の参加をえて'セーリングラリー'と称しグアムレースと同じ時期にレースをおこない、艇を完走させた。そして、現地グアム・マリアナスヨットクラブとの友好関係をも保ちつづけ、水面下でグアムレースの灯をともしつづけたのであった。
1997年12月25日、判決こそでなかったものの「自己責任の原則」は確立したとして裁判所の職権による和解に応じた。翌年に第8回グアムレースを挙行、グアムレースの灯はふたたび赤々と点ったのであった。普通の艇と普通のヨット乗りが目標にできる長距離レース、それがグアムレースなのである。
    (「NORCの航跡」に掲載:1999年刊行)


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      <マリンマリン><タカ>海難事故報告書の読み方」